【書評】「ロシアから来たエース―巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩 」

スタルヒンを知れば知るほど巨人が嫌いになる不思議

スタルヒンの娘・ナターシャ・スタルヒンがこの本を書いたのは1986年。
それは清原和博、桑田真澄がプロ1年目を踏み出した年であり、ミスター赤ヘル・山本浩二が引退した年。そしてシーズンオフに39歳の星野仙一が中日の監督に就任した年でありました。ちなみに店主は小学4年の野球少年でした。
その時点でスタルヒン没後29年なのですから、彼がどれほど昔のプロ野球選手であったかが分かります。ちなみにスタルヒンは沢村栄治とチームメイトで、あの打撃の神様川上哲治や巨人の永久欠番・千葉茂などは後輩にあたります。

昔の大投手、名前が冠された球場がある(旭川スタルヒン球場)、戦時中は「須田博」という名前でプレーしていたー
スタルヒンのことはなんとなく知っているようで、実のところあんまりよく知りませんでした。おそらく多くの野球ファンも同じようなものではないでしょうか?

なぜ今になってスタルヒンの本を読みたくなったかというと、昨年読んだ「最弱球団 高橋ユニオンズ青春期」(長谷川晶一/白夜書房)に登場した彼に興味を持ったからでした。

革命の嵐吹くソ連から命からがら日本に亡命。帝政ロシア時代のロマノフ王朝では将校の息子として生まれながらも、亡命先の日本では「白系ロシア人」としていじめられ、父親は殺人事件を起こして投獄され赤貧の幼少期を過ごす。そんな彼がやがて野球と出会い、類稀な才能を発揮して地元の誇りになり、やがて日本初の300勝投手に登り詰める。しかし、そんな彼の最後はハッピーエンドではありませんでした。彼の人生はサクセスストーリーだったのか、悲劇だったのか……。

スタルヒンのことをもっと知りたいと思い、この本にたどり着いた訳ですが、知れば知るほどやりきれない怒りのようなものが込み上げてきました。
その怒りの矛先のほとんどは彼の人生を弄んだ読売新聞社に向けなければなりません。
その新聞社は京都商業の沢村栄治を中退させたのと同様の手口で、スタルヒンを「大日本東京野球倶楽部」(のちの読売巨人軍)に引き抜こうと画策し、特高などに手を回してスタルヒン一家のソ連への強制送還などをちらつかせ、半ば脅迫する形で学校を退学させてチームに引き入れたのでした。
こんな憎らしい展開、池井戸潤でさえ思いつきません。

その後、スタルヒンは日本記録のシーズン42勝、史上初にして史上最速の通算100勝を達成するなどチームの6連覇にも大きく貢献し巨人軍のエースとして大活躍をみせました。しかし時は戦時中。戦況悪化に伴い「敵性スポーツ」である野球への風当たりが強くなると、スタルヒンを強引にチームに引き入れた巨人軍は、なんと彼を守るどころか野球界から追放してしまうのでした。嫌な球団です。

そんな巨人軍は戦後プロ野球が復活した際には、恩師の藤本定義監督を追って太平パシフィックに入団したスタルヒンに対して、今度は選手保有権は巨人軍にあると主張し、以後数年に渡ってスタルヒンの脚を引っ張り続けました。最低な球団です。

そして、スタルヒンの最晩年。力の衰えが隠せないスタルヒンは現役続行に意欲を見せながらもかつて所属した巨人軍から引退興行の打診を受けたため所属していたトンボユニオンズのユニフォームを脱ぎました。しかし、その引退興行は正当な理由のないまま中止になりました。本書ではこれをして「だまし討ち」と書かれてあります。許せない球団です。

先輩からは「スタ公」と可愛がられ、後輩からは「スタさん」と慕われたスタルヒン。試合前にはどてらを着込み将棋に熱中。「日本人以上に日本人」だと言われながら、時代と巨人軍に翻弄された彼の言葉が胸に刺さります。
「野球人生、僕は裏ぎられっぱなしだった」

そんなスタルヒンは引退の2年後、謎の多い事故により40歳でその生涯を閉じました。
日本の野球界への多大な貢献が認められ野球殿堂入りを果たしながらも、生涯無国籍でこの世を去ったスタルヒンが不憫に思えてなりません。

せめて、プロ野球の黎明期にスタルヒンという大投手が半端ない活躍をしていたという事実が今後も語り継がれていって欲しいなと思います。

ロシアから来たエース―巨人軍300勝投手スタルヒンの栄光と苦悩

ナターシャ スタルヒン
PHP研究所
384円

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