【蘇る名作】「東京スタジアムがあった ー永田雅一、オリオンズの夢」(2015/4/14)

両津勘吉にも愛された「光の球場」

「永田ラッパ」と呼ばれ、大映映画社長で大毎オリオンズのオーナー・永田雅一が、今はなき東京スタジアムとオリオンズに見た夢の物語。

昭和38年に完成した「東京スタジアム」のモデルはサンフランシスコ・ジャイアンツの本拠地キャンドルスティックパーク。内外野共に天然芝で、エントランスには現在のバリアフリーの概念にも通ずるスロープを採用。低い内野フェンス、広いロッカールーム、永田がライバル視していた巨人軍の本拠地・後楽園球場を凌駕する明るい照明。地下にはボーリング場があり、シーズンオフには1周400メートルのスケートリンクに変身。
東京スタジアム完成とともに、永田はチーム名を「大毎オリオンズ」から「東京オリオンズ」に変更。いち早く自前の球場を持つことにこだわり、チーム名から企業名を廃し地域密着の重要性に気づく、その先見性には恐れ入ります。
ちなみにスタジアム第一号のホームランは南海の野村克也だったそうです。

東京スタジアムの別名は「光の球場」。スタジアムのあった下町・荒川区南千住は周囲に高い建物がなく、ナイトゲームの時はこの球場が光り輝いて見えていたことからそう呼ばれるようになったそうです。

光の球場ー。

店主には耳覚えのある響きです。記憶を辿ると、高校時分に読んだ「こち亀」82巻に東京スタジアムを題材にした「光の球場!」という回があったことを思い出しました。久々に読みたくなり82巻だけ購入して読みましたが、本書で描かれている内容の追認、補完として最高の内容でした。この本と「こち亀」82巻を併せてお読みいただくと面白さ倍増だと思います(久々に読んだ「こち亀」も最高に面白かったですw)。

しかし、この球場は親会社の大映映画の倒産などもあり、わずか10年で幕を閉じることになります。
「こち亀」の中で、両津勘吉はこう言っています。
「わずか10年…光のごとく現れ消えていった気がする」

一時はライバルである巨人の正力松太郎から「東京スタジアムをうちに売って資金繰りをしてはどうか」との打診を受けますが、「魂を打ち込んだ球場を手放すわけにはいかない」とこれを拒否。
結局東京スタジアムはその後、ロッキード事件での「記憶にございません」発言で有名な、国際興業グループの小佐野賢治に買収されるのですが、それが東京スタジアムにとっては不幸でした。野球には何の興味もなく、数多く手掛けた事業再建では「不採算部門の大胆な整理」を得意とする小佐野にとって、この東洋一のスタジアムもただの赤字物件に過ぎなかったからです。

「極貧球団 高橋ユニオンズ」(長谷川晶一/彩図社)では、周囲を散々振り回したワンマンぶりの印象が強かった永田でしたが、この本には誰よりも球団経営に情熱を燃やし、選手とスタジアムを愛し、そしてファンに愛された「愛すべきオーナー」の姿がありました。
リーグ優勝したときにはグラウンドに雪崩れ込んだ多くのファンから胴上げされ、晩年すでにオーナーでもない彼が入院している病院にオリオンズの選手たちが次々と見舞いに訪れたことなどがそれを物語っていました。

この本はプロ野球の歴史、東京スタジアムの歴史を後世に語り継いでいるという功績があると思いますが、一人の男の名誉を回復したという功績も忘れてはいけません。その男の名前は飯島秀雄。東京オリンピック100メートル走日本代表。野球経験はないものの代走専門としてロッテに入団した男です。
先見性に富んだ永田は彼の獲得で球場に人が集まるとの算段もあったようですが、実際に飯島見たさに多くのファンがスタジアムに足を運び、代走で登場すると沸き返ったといいます。
しかし、やはり野球と陸上は違う競技。野球のルールはもちろん、投手との駆け引きなども経験がない飯島は苦戦しました。「ファーストがヨーイドン!と言ったら二塁に走っていった」というような、飯島を小馬鹿にしたような都市伝説も一人歩きするなど、飯島は苦戦しました。プロ生活3年での通算成績は117試合出場、23盗塁、17盗塁死、得点46、打席0、守備機会0。ファンが思い描いた結果を残すことはできませんでした。

そんな飯島に著者の澤宮優氏は手紙で取材を申し込みましたが返事はなく、郷里で運動具店を営んでいるという店に電話をしても「取材を受けるのが怖いんだ」と早々に電話を切られました。1年後、改めて電話をしても頑なに取材を断られます。「野球をやって良かったことは何もない」。わずかな会話の端々から40年経っても消せない飯島の苦悩が伝わります。
しかし澤宮氏は、そんな飯島が残した功績を紹介しています。それは飯島が塁にいた時のロッテ打線の打率が飛躍的に上がっていたという記録です。

”彼の足を恐れるあまり、相手バッテリーは打者への集中力がそがれ、コテンパンに打たれたことを物語る。これは彼の隠れた功績である。(本文より)”

飯島の足は見事にチームに貢献していたのです。これは小さいながらも飯島の功績です。

大分で暮らす店主の父は26歳まで東京・両国で暮らし、「東京スタジアムでよく野球を見た」とよく話してくれていました。久々に連絡してみると「山内、田宮、木樽が好きだった」「葛城っていう大分出身の選手もいてなー」と懐かしそうに当時の話をしてくれました。

スタジアムが消えて40年以上の時が経ちましたが、「光の球場」で見た光景は多くの人々の心に今も残っている。父と話しながらそんなことを考えました。

「東京スタジアムがあった -永田雅一、オリオンズの夢」

澤宮 優
河出書房新社
1760円

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