沢村栄治 裏切られたエース

大谷翔平と同い年のスターは戦地に散った

「沢村賞」という名誉ある賞があります。しかし沢村栄治がどんな選手だったかまで知っているプロ野球ファンは、実はそんなにいないのではないでしょうか?
店主もこの本を読むまでは「ベーブルースらをきりきり舞させた投手」「戦前の巨人軍の投手」くらいしか知りませんでした。ましてや映像も見たことがありませんし、顔も思い浮かべることができません。

この本の表紙と裏表紙には、おそらく現代の技術でカラー復元されたと思われる沢村栄治の写真が載っています。そこに映っているのは、はにかんだ笑顔にあどけなさが残るどこにでもいる1人の若者、沢村栄治の姿です。

プロ野球が職業野球と呼ばれ「野球を商売にするとは!」と蔑まれていた時代。そんな時代にあって一番の名声を轟かせていたのは沢村栄治でした。当時のピッチャーの平均球速が120km/h程度と言われていた時代に、150km/h後半のボールを投げていたといわれ、史上初のノーヒットノーランに初代最高殊勲選手も獲得。2013年に田中将大(楽天)が24勝0敗という圧倒的な成績を残しましたが、沢村はそれ以上の成績を半年で残しました。如何に突出した選手だったかが分かりますね。

そんな沢村は3度も戦地に駆り出されています。戦地から二度帰還しては巨人軍に復帰しましたが、手榴弾を投げまくったせいで肩を壊し、全盛期とはほど遠かったといいます。晩年はサイドスローに転向し、かつての剛速球は影もなかったそうです。
沢村は巨人軍でプレーした9年間のうち野球ができたのは5年間だけ。あとの4年間は戦地で過ごしました。その5年間の中でも五体満足にプレーできたのは出征前の3年ほど。全盛期は短かったんですね。

ところで、沢村はなぜ3度も戦地に駆り出されたのでしょうか?
多兄弟の家庭は長男の招集は免除される場合が多く、招集されても普通は2度までというケースが多かったそうです。いくつかの理由が推測されています。

①「職業野球界のスーパースターが3度も出征した」という戦意高揚に利用された。
②妻の親族が内務省の高官で厳格な人物であった。そのため身内を特別扱いすることを由とせず逆に厳しく対処した。
③高校中退者であったため。

③の理由について。当時は26歳までの大学生は招集免除されていたため、プロ野球はこの制度を利用して有望な若手を夜間学部などに籍だけを置かせて徴兵逃れを行っていたそうです。しかし、沢村は7人の弟妹たちの学費を稼ぐため、上手くいっていない父親の商売を助けるため、高校を中退して巨人軍への入団を決めました。本来であれば慶応大学進学が既定路線だったそうです。大学に行っていれば間違いなく3度も戦地に赴くことはなかったでしょう。

プロ野球”第1世代”のスーパースター沢村栄治は27歳で戦死しました。これは今年7月5日に誕生日を迎える大谷翔平と同じ年齢です。
普通の若者と同じように恋をして、家庭も持った沢村。多兄弟の長兄らしく子どもが大好きだった彼にもやがて娘が生まれます。しかし、そのわずか三ヶ月後に二度とは戻ってこない、三度目の戦地へ赴くことになるのでした。

なんて酷い時代だったのでしょうか。
戦争とはなんと惨いものなのでしょうか。

毎年100名ほどの新人選手がプロ野球の世界に足を踏み入れますが、この本を全員に読んで欲しいなと思います。

太田俊明
文藝春秋
1155円(Kindle版:1100円)

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